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2018.8.30 THU
COLUMN
本当に言いたいことは、言葉ではなく音で語りたい―そんな思いがあります。私は文章を綴ることが好きなほうですが、それでも、自分の内奥の一番柔らかでむき出しの気持ちや考えは、どんな言葉を総動員しようとも伝え得ないと思うからです。ならばそのまま音に託して誰かに伝えたい、と。
シャネル・ピグマリオン・デイズ2018はこの思いに沢山の機会を与えてくれる場でした。5回の舞台と皆様からのフィードバックを通して生まれた自覚や感情が、大切な糧として積み上がってきています。一回一回のリサイタルへ向けて今までになく真っ向から音楽と己と向き合い、演奏会開演10分前に逃げ出したいときもありましたが、一旦舞台に上がってしまえばすべての過程は遠のき、聴いてくださる方々になにか語りたい、楽しんでいただけたら、という一つの願いのみが残りました。公演の次の日は張りつめていた糸が切れ、一日中餅のように伸びていることもしばしばありました。しかししばらくして再びピアノの椅子によじ登ると、ああやっぱり弾いているときが一番幸せなんだと喜びを噛みしめることになりました。
音楽と向き合う時、何十年、何百年前に生きた作曲家の遺した感情や情景・物語が、私の実体験の中にないかとまず探ってみます。心の底から喜ぶこと、懐かしむこと、意味もなく泣くこと、切望すること、自問し悔やむこと、祈ること、誰かを愛すること、憎むこと、憧れること、永遠に失うこと。そんなものたちが時空を超えて体内に自分のものとして感じられることもありますが、そうでない場合は、こうかもしれない、とまだ知らぬ世界を想像してみます。それはある種宇宙的な行為であると同時に、とても現実的でもあります。年を重ねることによって、前はよくわからなかった音楽を「ああこういうことだったのか」とストンと理解する瞬間があったり、まあいつかこの音楽をもっと身近に感じられるときがくるだろう、とちょっと地下のワインセラーに置きにいくこともあります。音楽体験が人生とそのままシンクロしているから面白いのです。
2018年は節目の年となりました。この夏にパリ国立高等音楽院修士課程を卒業し、6年にわたるパリ生活に一旦ピリオドを打ちます。今後はドイツ・ライプツィヒのメンデルスゾーン演劇音楽大学演奏家コースにてゲラルド ファウト氏に学びます。住み慣れた街を離れることは引っ越しの筋肉痛と相まってなかなか腰が重かったですが、今動かなかったら一生動かないだろうと思い、新しいチャプターを開くことに決めました。フランスとドイツ、共に西洋音楽のルーツで隣国と言えど歴史も言葉もユーモアも食べるものも飲むものも違います。なんだか骨太になってきたね、と言っていただけるようにどんどん脱皮していきたいと思っています。
音楽を道として選んだ以上、音楽に関することによって苦しむこともありますが、その苦しさを取り除いてきてくれたのもまた、いつも音楽でした。時に無意味のように思える人生に大きな価値を与えてくれたのも。私自身がそうであるように、音楽に思いがけず救われ、その曲を繰り返し聴くようになる…そんな瞬間が一箇所でも多くの場所で起こってほしい。人々がそのような体験を持つことで、もしかすると世の邪悪な色素を薄めていくことができるかもしれない。クラシック音楽は人間性を回復させ、豊かにする力があると感じています。そのチャンスにピアノ弾きとして日々微力を尽くせればと思います。
それでは10月20日のリサイタル最終回、11月の室内楽シリーズ、そしてグランドフィナーレとまだまだネクサス・ホールで皆様とお会いできますのを楽しみに、感謝と共に。
文:江崎 萌子
(シャネル・ピグマリオン・デイズ 2018アーティスト)
(シャネル・ピグマリオン・デイズ 2018アーティスト)