FEATURED
2020.2.27 THU
Exhibition
パリ・オペラ座バレエ団 ダンサー撮影秘話
ピエール=エリィ ド ピブラック
インタビュー
3月11日(水)よりシャネル・ネクサス・ホールでは、パリ・オペラ座のダンサーたちを撮影した写真展『In Situ』ピエール=エリィ ド ピブラック展を開催いたします。
写真家ピエール=エリィ ド ピブラックは2013年から2015年にかけてバレエ団の生活に入り込み、作品制作を行いました。本展『In Situ』は「Confidences」「Catharsis」「Analogia」3つのシリーズで構成されています。開催に先がけて、ご本人に制作の舞台裏についてお話を伺いました。
©Pierre-Elie de Pibrac
もともと、このプロジェクトは妻のアイデアでした。2009年、当時、婚約者だったオリヴィアと、『ル・パルク』(アンジュラン プレルジョカージュ振付)の公演をパリ・オペラ座へ観に行った際「もしダンスをテーマに写真作品をつくってくれたなら、それはもっとも美しい自分への贈り物になるわ」と、私の背中を押してくれたのが彼女でした。
その後、調査のために、たくさんの映画やドキュメンタリー、写真プロジェクトを見ました。中でも一番ためになったのが、妻の好きなフィルムの1つである、オペラのバレエ学校を描いた『L’age heureux(幸せな年頃)』でした。本当に面白かったし、これがきっかけで、何とパリ・オペラ座ガルニエ宮の屋根の上で写真を撮ることになったわけです。
- 作品制作当時のパリ・オペラ座バレエ団 芸術監督ブリジット ルフェーブルにはどのようにプレゼンテーションをされたのですか?また彼女の反応はどのようなものでしたか?
当時はいったい何をどうすればよいのか分からない・・・といった状態でしたが、いくつか写真作品を頭に思い描きました。関連資料をまとめ、状況に応じて変更することも可能であると提案したところ、彼女はやりたいように自由にやりなさいと言ってくれたのです。彼女は本当に素晴らしく、実に幸運でした。
「Confidences」シリーズについて
- バレエ団の舞台裏を撮影されていますが、ここで捉えたいと思ったことは何ですか?また、なぜモノクロ写真にしたのでしょうか?
「Confidences(信頼)」はモノクロのシリーズで、バレエダンサーたちの親密さを取り上げています。彼らの日常生活ですね。モノクロで制作したのは、バレエダンサー自身と、彼らの世界、そしてそこにある光のコントラストだけに焦点をあてたかったからです。カラーで撮ったポートレート写真も数枚あって、それらは『In Situ』の写真集冒頭に収録したインタービューのページで使われました。
©Pierre-Elie de Pibrac
「Catharsis」シリーズについて
- タイトルに、「Catharsis」とつけた理由や作品のコンセプトについて教えて下さい。ブレた映像はどのように作り出したのですか?また、その狙いについて教えて下さい。
©Pierre-Elie de Pibrac
「Catharsis」は、ダンスに対して非常にパーソナルかつ抽象的にアプローチして制作した作品です。新しい構想とテクニックを用いながら、パフォーマンスするバレエダンサーたちが発するエネルギーと、それらが周囲に拡散される様を捉えようとしました。それぞれのバレエ作品は私に激しい感情や衝動、不安や幻想を与えました。これらの感覚をまるで子供の頃の記憶のように、写真的考察に置き換えた結果、力強いイメージになりました。そしてそのイメージは、歪みや自然な抽象化によって、また別のストーリーを語るのです。鑑賞者は、これらの作品から発せられるエネルギーや感情に満たされると、それぞれの視点でそのイメージを自由に解釈できるようになります。このシリーズを「Catharsis」と名付けたのは、誰もがこれらの写真に呼応し、自分のものとすることができるからなのです。
「Analogia」シリーズについて
- タイトルに込めた意味についてお教えください。また、このシリーズで何を描き出そうとしているのでしょう?撮影場所や構図、ダンサーたちのポーズはあなたが事前に計画されたのですか?
「Analogia(アナロジー・類推)」は、パリ・オペラ座でバレエダンサー11人と共同制作した作品です。これは、ユニークかつ広角な視野を得られるように “改造”した、大型ビューカメラを用いて撮影した、演出写真のシリーズです。荘厳で類まれな建築物に敬意を表し、全体のバランスとラインを尊重しながら、歴史的な劇場の巨大さを写真に収めることができました。パリ・オペラ座ガルニエ宮の美しさと魔力がどの世代のバレエダンサーをも奮い立たせるので、空間を誇張することによって、劇場がそこで活躍するアーティストたちに及ぼす影響を浮き彫りにしようと努めました。
壮大で伝説的な場所に住まう、アーティストたちにのしかかる歴史の重さを際立たせるために、ガルニエ宮の“包み込むような”建築構造の中に各ダンサーを注意深く配置しました。それぞれの撮影場所と位置はあらかじめ妻のオリヴィアと決めておいて、その上でこれをダンサーたちに見せると、彼らは作品をさらに素晴らしいものにしてくれました。私はスケッチを描いて、ダンサーたちにどうして欲しいのかを見せ、撮影のために2~4か月前に“予約”を入れてその場所を確保しました。余談ですが・・・ガルニエ宮の屋根の上の作品は、予約をいれておいた日に娘が生まれたので、撮影日と誕生日が一緒なんです!
©Pierre-Elie de Pibrac
- 制作の上で体験した、思い出深いエピソードをお教え下さい。
思い出深いエピソードはたくさんあるんです!ただ、ガルニエ宮の屋根の上で撮影したことが一番強く記憶に残っているのは確かですね。撮影があまりにも楽しかったので、ダンサーたちは長時間、屋根の上に留まって、(その同じ日に生まれた)私の娘のためにビデオまで撮ってくれました。私たちはこの格別の時を、本当に自由にこころゆくまで楽しみました。
©Gilles Djeraouane
- 本展キュレーターのインディア ダルガルカーとは、どのような共同作業をされましたか。
素晴らしかったです。彼女は卓越したアイデアをたくさん持っていて、このプロジェクトをとてもよく理解してくれました。私がこの作品をどう見せたいのか、そして多くの新作を含めた写真群を展示するという、またとない機会を私がどう活用したいのか、彼女はわかってくれました。
写真家への道
- 写真家だった祖父ポール ド コードン氏の写真を屋根裏で発見したときのエピソードを、詳しく教えて下さい。
それはごく最近の話ですが、祖父については最も有名な写真しか知らなかったので、昨年、彼の仕事をじっくり見てみようと決めました。90年代以降、開かずの間だった彼の暗室に入ってみたところ、そこになんと20万点以上の写真を発見したのです。正確に言うと、祖父がかつて暮らしていた家や田舎の邸宅のそこら中に、ネガとプリントを見つけたわけです。それこそ地下室から屋根裏部屋に至るまで、大量にありました。
祖父の写真を眺めているうちに、私が子供の頃に見たことのある、ジプシーを撮影した作品を思い出しました。この作品については誰も知らなかったのですが、私は覚えていました。ある日、祖父の古めかしい家の最上階にいると、突然 “ひらめき”があって、思い出したのです。それは古い煙突を隠すカーテンの後ろにあったので、その前に置いてあった物を全て移動させると出てききたんですよ。祖父が映画の助監督を務めていた1959年、第二次世界大戦後に初めて制作した報道写真のネガ、900枚が。しかもこれは、彼の途方もない人生、あるいは数えきれないほどの経験といえる中のほんの小さな物語にすぎません。
彼は私がこれまで出会った中で最もすばらしい人物で、貴族然としていて、クールで、上品な写真家でした。私が祖父の写真に感銘を受けるのは、彼が時代を何年も先取りしていたこと、被写体ととても緊密に仕事をしていたこと、そして優れた著述家でもあったことです。彼は友人のサーカスで30年以上を過ごし、またパリのキャバレー、クレージーホースに30年以上通い続け、それをもとに素晴らしい作品を制作しました。
- どんなアーティストや作品から影響を受けましたか?
これまでもずっと展覧会に行ったり写真集をみたりするのは好きで、私の情熱の対象は写真集だと言ってもいいくらいです。300冊を超える数の写真集を持っていますが、その多くはサイン入りの限定版です。多くの写真家の影響を受けてきたので、きっと私は映画監督が自分の映画をイメージするよりもうまく自分のプロジェクトを頭に描くことができますよ。それにたくさん本を読みます。プロジェクトにもよりますが、たとえばキューバの製糖業を追った「Desmemoria」シリーズ(2019)の制作では写真家ウォーカー エヴァンスから強く影響を受けましたし、(次のプロジェクトのために京都に滞在している)今は、作家ニコラ ブーヴィエが日本について著した著作なしには何も制作できません。
- 最初に取り組んだ作品は、キューバとミャンマーで制作したとのこと。これらの地で制作することにした経緯を教えて下さい。
キューバに行った時は、まだ学生でしたし、自分でも写真家になりたいかどうか分かりませんでした。それが初めての家族旅行でした。単にそこにいたという理由で、2日間ハバナの写真を撮りましたが、特に何か特別なプロジェクトがあったわけではありません。ミャンマーの場合は、友人のギヨームから、銀行で働き始める前に写真家になりたいかどうかを知るために、一緒にどこかに行ってプロジェクトをやってみようと提案されたのです。私は彼の話を聞き入れて、一緒にミャンマーに行きました。そこにいる間にシリーズ作品を制作することに決め、そのときの作品から後にいくつかを写真コンテストに出品しました。それらで賞を取って、その瞬間に全てが始まったのです。
写真にまつわるその他の事柄について
- ご自身の作品は、ドキュメンタリーと認識していますか?
ドキュメンタリーと純粋芸術との間のどこかにあると思います。私は常に人間を作品の中心に置いて証しとしますが、独創的なシリーズに取り組んでいる時には、自分の思いを表現する必要もありますから。
- 以前、写真家アンリ カルティエ=ブレッソンのいう、“Image à la sauvette”注 は自分には撮れないと語っていたことがありました。そのように思われる理由を、あらためて教えて下さい。
注:「逃げ去る映像」の意。日本では、英訳のThe Decisive Momentを和訳した“決定的瞬間”の語で知られる。
アンリ カルティエ=ブレッソンは大好きだし非常に感銘を受けていますが、同時代ではロベール ドアノーのほうが好みではあります。私は、毎日目にするものを写真に撮ったり、明確な動機なしに瞬間を捉えたりするような写真家ではありません。自分のプロジェクトに合うものを写真に撮らなければならない。仕事をしている時以外は、私は決してカメラを持ち歩かないし、何かしら興味深いことが起こっていようとも、プロジェクトに関連する写真しか撮りません。不思議ですが、そういうものなのです。
- 展覧会と写真集の制作、それぞれの魅力や、気をつけているポイントはありますか?
展覧会と写真集は別物ですが、どちらも極めて重要です。展覧会とプリントを通して人々を私のプロジェクトへと深く誘わなければなりません。プリントにずいぶんと労力をかけるので、撮影してから最初のプリントを発表するまで一年以上かかってしまうんです!
また、写真集の読者にプロジェクト全体を理解してもらい、テーマとする世界に入り込んでもらうためには、すべての物語を語る必要があります。私にとって、写真集はプロジェクトの最終段階であり、その真髄です!また写真集では、著述家を招いて、別の視点を提示してもらうことができます。オリヴィアと私はプロジェクトをはじめるときからこのことについて考えていて、常に私たちの心のどこかにあるのです!
- 京都で作品を制作するとのこと。日本や京都に興味をもった理由をお教え下さい。
東京でもよかったのですが、子供2人を連れているので、(京都の方が)もっと寛げるし平穏なのではないかと考えました。子供たちはとても楽しんでいるようだし、私たちが住んでいる典型的な日本家屋は、すばらしいの一言です! 寒いけれどもすばらしい!この展覧会のために来日する機会を得たのですから、日本で暮らすチャンスを逃す手はありませんでした。オリヴィアと私で、意義深いプロジェクトを立案できればと思っています。簡単なことではありませんが、魅力的な挑戦ですね。
- 最後に日本のみなさんへ、メッセージをお願いします。
皆さんの素晴らしい国、そして生活の中に私を迎え入れてくださって、本当にありがとうございます。皆さんのご期待に沿えればと、願うばかりです。
取材・文/富田 秋子
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ピエール=エリィ ド ピブラック 写真家 Pierre-Elie de Pibrac
1983年パリ生まれ。祖父は写真家のポール デ コードン。2007年、最初の写真ルポルタージュをキューバとミャンマーで制作。2009年に名門ビジネススクールを卒業後、写真の道に本格的に進む。2010年、ニューヨークに渡り、初の大型プロジェクト「American Showcase」を、2012年には「Real Life Super Heroes」を制作。2016年にはキューバに滞在し、製糖業に生きるアズカレロスと呼ばれる人々の生活を撮影したプロジェクト「Desmemoria(忘却)」を実現し、2019年10月にEditions Xavier Barralより写真集が出版された。