EXHIBITION
ア・ライフ・イン・アート フランソワーズ ジロー回顧展
2010.3.4 THU - 3.30 TUE
12:00 - 20:00 無休 入場無料
INTRODUCTION
画家フランソワーズ ジローはフランスで生まれ、幼い頃から絵画を通じて自己を表現してきました。美しく聡明な彼女は、ピカソが愛した多くの女性たちの中でたった一人、彼に反旗を翻した存在としても知られています。「ラ・ファンム・フルール(花の女)」と称され、ピカソのミューズとして彼との間に2人の子供をもうけ、家庭らしい家庭を営んだという点でも唯一の女性でありました。才能豊かな一人の芸術家として、マティスやコクトーといった当代きってのアーティストたちの間を飛び交わり親交を持った日々、ピカソと過ごした10年間、アメリカ人サイエンティストとの出会いと結婚……。そのドラマチックな人生の歩みとともに作風を変革させながら、現在もなおエネルギッシュに作品を描き続けています。そんなフランソワーズ ジローの1942年から2008年にかけて制作された選りすぐりの作品を回顧展としてご紹介いたします。そこに私たちは、女性として画家として独自の境地を自らの手で開いてきたフランソワーズ ジローの魅力と才能、エネルギーに満ちた人生を見つけることができるでしょう。
ARTIST
フランソワーズ ジロー
Françoise Gilot
1921年、パリに生まれる。ソルボンヌの法科学士課程を修了し、国際弁護士になることを望んだ父親の反対を押し切って画家としての道を進む。1943年、ナチス占領下のパリでピカソと出会い、1946年より恋人として芸術のミューズとして生活をともにする。ピカソとの間に息子クロード、娘パロマが誕生し、それを機に生活の拠点を南仏に移す。その後、1953年にピカソのもとを去り、2児を連れてパリへ。前年にパリで開いた個展が好評を得たことで、自立への道を歩み始める。穏やかな抽象画はさらに注目され、活躍の場は英米にも広がっていく。1970年には、小児まひのワクチンの開発者として知られる米国人医学者ジョナス ソークと再婚して米国に移住。心安らかな暮らしがもたらされる。1940年 ~ 50年代のエコール・ド・パリと、現代アメリカのアートシーンの架け橋となったジローの作品は、欧州および米国の多くの美術館に常設、または著名な美術コレクターの所蔵となっており、夫亡き今も、NY、パリを拠点に精力的に活動を行っている。
その他、作家でもあり詩人でもあるジローの主な著書は、世界でベストセラーとなった『Life With Picasso(邦題・ピカソとの生活)』(1964年)、『The Fugitive Eye』(1976年)、『Interface:The Painter and the Mask』(1983年)、『Francoise Gilot: An Artist’s Journey』(1987年)、『Matisse and Picasso: A Friendship in Art』(1990年)など。
1988年フランス芸術文化勲章コマンドール章、1990年フランスレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を受章。1996年フランス大統領から国家功労勲章オフィシエ章を授与される。さらに、芸術家の仲間たちによりニューヨーク ナショナル・アカデミー・オブ・デザインのアカデミー会員にも選出される。
REPORT
「ア・ライフ・イン・アート」フランソワーズ ジロー回顧展
作家インタビュー
(文:藤森 愛実 撮影:宇壽山 貴久子)
--日本での展覧会を控えた画家フランスワーズ・ジローのニューヨークのご自宅を、シャネル日本法人社長のリシャール・コラス氏とともに訪ねた。セントラルパークにほど近い閑静な住宅街の一角。二層吹き抜けのアトリエは、天井高が6メートル近くある。「北側の窓から入るノースライトも最高です。色味が一定に見えるので、画家にはとても重要なんです」。ジローご自慢のアトリエで、お話を伺った--
フランソワーズ・ジローは、1943年、パリの画廊から新進画家としてデビュー。以来、戦後のパリ、カリフォルニア、いま現在のニューヨークと、制作拠点を移しながら60余年に及ぶキャリアを築いてきた。3年前、ニューヨーク・スタジオ・スクールのギャラリーで新作展を開催。その力強い色彩は、「ナバホの赤、プロヴァンスの茶、カリフォルニアの青と白を呼吸する」と評された。
本展には、その近年の抽象画を中心に、初期の人物画や静物画など40点あまりが登場する。
「日本で初めての展覧会ですから、これまでの展開のすべてをお見せしたいと思いました。20歳の頃に描いた絵もあります」。
ジローが見せてくれたのは、「ゴーギャン風」と自ら認める<魚売りの娘/Fisherman’s Daughter>(1942)だ。同じ娘をモデルにしたデッサン<ブルターニュの少女/Young Girl from Brittany>(1942)や、<漁港/Fishermen’s Harbor>(1944)など、なるほどナビ派やフォービスムを彷佛とさせる。ブルターニュはまた、ジローが毎夏、家族と過ごした思い出の地でもある。
ジローは、パリ郊外の裕福なインテリ家庭の一人娘として生まれ育ち、5歳のときに画家宣言、12歳で年長者に混じって絵画学校に通い、20歳の頃からハンガリー人の画家アンドレ・ロシュダに師事。毎日9時から12時まで、彼のアトリエに通い詰めた。娘を弁護士にしようと考えていた父親は大反対。だが、親友の画家ジュヌヴィエーヴと一緒に画廊デビューにこぎつける。そんな中で出会ったのが、巨匠ピカソだった。
ピカソのアトリエを訪れる一方で、有名なアカデミー・ジュリアンに入学し、サロン展に出品。当時先鋭の「レアリテ・ヌーヴェル」の画家たちとも親交を深める。
「ピカソと出会ったのは1943年、私はまだ21歳でしたが、自分は画家なのだという意識がとても強かったのです。二人の間には40歳もの年の開きがありましたし、もし同じ世代であったなら、彼の影に隠れてしまうというようなことを心配したかもしれません。ピカソは話が上手で、二人で芸術について語り明かすのは本当に刺激的でした」。
ピカソのミューズとして、一躍世に知られることになったジロー。1946年から巨匠との生活が始まり、クロードとパロマ、二人の子供をもうける。だが、子育てやピカソの作品管理で多忙な中にも、ジローは決して絵筆を取るのをやめなかった。色彩を限定した「白の絵画」のシリーズ、家族や友人を簡潔な線で描写したドローイングなど、多くの作品を生み出す。<ポール・エリュアールの肖像/Portrait of Paul Eluard>(1951)や、<炎の子どもたち/Children of Fire>(1952-53)は、この頃の代表例だ。1952年には、パリのルイス・レイリス画廊で初めての個展を開く。このときの展示作品のひとつが、<果物のある静物/Still Life with Fruits>(1952)である。
初個展は好評を博し、画家としての自立の道に繋がった。女性遍歴で知られ、支配欲の強い天才画家に愛想をつかしたジローは、決然とピカソのもとを離れるのだ。
「1954年から1961年の間は、私にとって本当に重要でした。絵画というものをもっと深く考えてみる時間だったと思います。目の前の自然をいま一度見つめ直してみようと思いました。ピカソのダイナミックで乱暴なスタイルに知らず知らずに慣らされていた、その悪習を捨て去らねばと考えたのです」。
こうして、一見古風ともいえる油彩画<鏡の前に座る踊り子/Dancer Sitting in Front of a Mirror>(1955)や<白いチュチュの踊り子/Dancer in a White Tutu>(1955)が生まれ、その一方で、<クロードとパロマ、屋根裏にて/Claude & Paloma in the Attic>(1958)のように、画家の内的世界を投影したシンボリックな絵画が生み出される。この時期、ジローは若い頃の画家仲間リュック・シモンと結婚し、娘オーレリアをもうけている。
1961年、ジローは初めてニューヨークを訪れた。
「アートの中心はもはやパリではない、ニューヨークだと思ったのです。それに私のコレクターの大多数はアメリカ人でした」。
シモンとの結婚は、度重なるピカソの介入、とりわけクロードとパロマをピカソが認知する条件として、同年、協議離婚するに至った。が、1964年に刊行された『ピカソとの生活』は、世界的ベストセラーに。65年にはニューヨークのディヴィッド・フィンドリー画廊で個展を開催。その後、シカゴ、ヒューストン、ロサンゼルスとアメリカ各地で活躍の場が広がっていく。すべてが再出発。アメリカはいわば、ジローの新天地であった。
この新天地で、ジローは思いがけずアメリカ人の伴侶を得ることになる。1970年6月、医学者ジョナス・ソークと再婚。制作の拠点をサンディエゴ郊外のラ・ホヤに移し、<ダイバー/Diver>(1973)、<アクロバット/Acrobat>(1975)など、新しい主題に挑戦していく。
「当時私が興味を持っていたスポーツのテーマを扱っています。カリフォルニアの強い陽射しの中で、絵画表面の扱いも変化しました。それまでのインパスト(厚塗り)からハードエッジな塗りに変わり、平坦でカラフルな色面に人体の有機的モチーフが重なっています」。
やがて、赤・青・黄の三原色を主体に、色の帯とシンボリックなモチーフが拮抗するジロー独特の画風が生まれていく。エーゲ海の島巡りを描いた<青から赤へ/From Blue to Red>(1978)、1976年の初のインド旅行に触発された<ターコイズから赤へ/From Turquoise to Red>(1978)。ヨットや波、樹木の幹や茂みなど、具体的なモチーフを残しながらも、多彩な色、水平と垂直の線が新しい抽象のフォルムを刻んでいる。
「具象と抽象の違いは私にとって大きなものではないのです。目に見えるものをそのまま写し取るのではなく、心が捉えたものが色や形を形成していく。絵画とは詩的プロセスを伴う錬金術なのです」。
ジローの作品は、同世代のアメリカ人画家リチャード・ディーベンコーン(1922-93)が残した「オーシャン・パーク」シリーズと比較できるかもしれない。が、ディーベンコーンの無機的な色面がいたってクールな、いわば「冷たい抽象」だとすれば、ジローの有機的な、ウィットに富んだ画面はどこまでも熱い。赤を主体にした<8月の静寂/August Stillness>(1997)、<暗黒の太陽/Dark Sun>(2000)、<生命の樹/The Tree of Life>(2002)が、その好例だ。
「色彩は私の感情の表現です。毎朝カンヴァスに向かい、色と形が私の内部から噴出してくるのを待ちます。マチスがかつて『人生最後の絵であっても、僕が描くのは喜びだ』といった言葉が忘れられません。私の絵も、現実の問題や恐れを回避するのではなく、絶望や崩壊に立ち向かう意志を謳っているのです」。
マチス、ピカソの時代を目撃し、20世紀を生き抜いた画家。その言葉はどこまでも力強い。
※このインタビューは、2009年12月 ニューヨークのフランソワーズ・ジロー氏のアトリエにて行ったものです