FEATURED
2019.8.1 THU
Pygmalion 15th
シャネル・ピグマリオン・デイズ 2013
長尾 春花 インタビュー
今年で15年目を迎えたシャネル・ピグマリオン・デイズ。昨年までに73名の若手音楽家たちがこのプログラムで演奏の経験を積み、アーティストとしての一歩を踏み出してきました。15年という節目を迎え、これまでに参加してくださったアーティストたちの「いま」をご紹介するインタビューシリーズを、2月よりスタートしました。
シリーズ第5回目は、シャネル・ピグマリオン・デイズ2013年参加アーティストであり、現在、ハンガリー国立歌劇場管弦楽団コンサートマスターの長尾春花さん(ヴァイオリン)にお話をお伺いしました。
© T. Tairadate
長尾 春花(ヴァイオリン) Haruka Nagao
シャネル・ピグマリオン・デイズ2013 参加アーティスト
静岡県掛川市出身。東京藝術大学、同修士課程を首席で卒業。同博士課程を修了、博士号(音楽)取得。リスト音楽院ヴィオラ科修士課程修了。日本音楽コンクール第1位、増沢賞、レウカディア賞、鷲見賞、黒柳賞。ロン=ティボー国際音楽コンクール、仙台国際音楽コンクール、ドミニク・ペカット国際コンクール入賞。 静岡県文化奨励賞、上尾市栄誉賞、松方ホール音楽賞受賞。ジャンルカ・カンポキアーロ国際音楽コンクール第1位、特別賞、Gianluca Campochiaro賞(全部門1位)受賞。カール・フレッシュ国際ヴァイオリンコンクール第1位、優れたモーツァルトの演奏に贈られる特別賞受賞。ヴァイオリンを江藤アンジェラ、故江藤俊哉、ジェラール プーレ、ボリス クシュニール、青木高志、故岡山潔、玉井菜採、ペレーニ エステルの各氏に、ヴィオラをバールショニー ラースローに師事。2018年NYカーネギーホールにて、ハンガリー国立歌劇場管弦楽団とF.ヴァッキのヴァイオリン協奏曲を演奏。ハンガリー国立歌劇場管弦楽団コンサートマスター。Szigeti Quartet(シゲティ弦楽四重奏団)第1ヴァイオリン。
シャネル・ピグマリオン・デイズ2013年参加アーティストのヴァイオリニスト 長尾春花さんは、現在ハンガリー在住。2016年からハンガリー国立歌劇場管弦楽団コンサートマスターを務め、オペラやコンサートで多忙な演奏活動を続けています。明るい人柄と豊かな才能の持ち主である長尾さんはオーケストラ内でも人気者で、ときに1日2回となるハードなオペラ上演もリーダーとして責任をもってこなされています。ピグマリオン・デイズでは、回を重ねるごとに共演者を増やしていくという、前代未聞のユニークな試みも行った長尾さん。つねに積極性を持ち続け、情熱的に音楽と取り組む長尾さんには、行く先々で幸運を集める特質があるのでしょう。ハンガリーでの素晴らしい日常と、ネクサス・ホールでの思い出をたずねてみました。
©T. Tairadate
「ハンガリーを初めて訪れたのは東京藝術大学博士課程1年目の夏でした。バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタを研究テーマにして、作曲家が生まれ育ったハンガリーを訪れたのですが、降り立った瞬間『私、ここに住んでみたい!』と思ったんです。幸いなことにバルトークの曲のレッスンを受けることが出来て、それもびっくりするほど説得力があって、レッスンが終わる頃には先生に『(リスト音楽院に)来年受験したら、私が入れる席はありますか?』と質問していました。それが2014年のことで、翌年には藝大を休学してリスト音楽院に入学しました。3年目からはヴィオラ科で入り、理論などは藝大ですべて単位を取っていたので、ほぼレッスンと現代音楽の授業を受けていました」
今年6月で卒業するリスト音楽院で学びながら、プロの演奏家として活躍してきた長尾さん。それ以前にもヨーロッパの国々を訪れることはありましたが、ハンガリーはご自身にとって特別な国だと語ります。
「一番好きな国を聞かれたら、今住んでいるハンガリーと答えます。みんな優しくて、本当に心が温かいんです。ハンガリー語は…ぼちぼちです(笑) 何語にも似てないんですよ。フィンランド語に似ているという説もありますが、ルーツがアジア系とも言われますね。文化は全然違いますが、日本人のことをすごく尊敬してくれていると思います。ハンガリーにはスズキ自動車が進出して成功していて、日本の企業がハンガリーを救ったというエピソードもありますし…」
ハンガリー国立歌劇場管弦楽団 ニューヨーク公演
カーネギーホールでの演奏風景(2018年11月)
「コンサートマスターになって1年目は、ほとんどハンガリー語が出来なかったので『こうしましょう』『こうしたらどう?』というのを言葉で伝えられなくて、もどかしい思いをしていました。オーケストラの楽団員の90%はハンガリー人で、それほど英語は通じなくて…とにかく演奏でベストを尽くせるようにしようと。2年目に日本ツアーがあり、オーケストラの楽団員と5週間も衣食住をともにする中で、言葉も喋れるようになったんです。普段の生活以上にハンガリー語で会話しなければならなかったので、日本にいる間、一気に上達しました(笑)」
©T. Tairadate
小柄で可愛らしい長尾さんのオーケストラでのニックネームは、『子猫ちゃん』。指揮者とオーケストラの間に立ち、テンポの切り替えや歌手との合わせがうまくいくよう全員を導きます。ポジティヴに物事をとらえ、つねに粘り強く物事を前に進める長尾さんの性格は、音楽家として理想のものでしょう。静岡県掛川市に生まれ、ヴァイオリンを始めたのは3歳のとき。
「2歳くらいのときにテレビを見ていて、『これをやりたい』ってコンサートマスターの人を指さしたみたいです。母はピアノ教師で、絶対音感がなくて学生時代にすごく苦労をしたそうで、『この子にはつらい人生を歩ませたくない』と、ずっとヴァイオリンをやらせることに反対していたんです。1年間『ヴァイオリンをやりたい』と言い続けていたら、ついに母も根負けして3歳のときにようやくレッスンに通うように。練習は楽しかったですね。いやいややったことは全然なくて、むしろ親が友達いないの?って心配するくらい、家に帰ってくるとヴァイオリンで遊んでいました」
©T. Tairadate
7歳でモーツァルトのコンチェルトを弾き、10代で様々な国内コンクールで優勝を果たしていく長尾さん。彼女のおおらかな天然ぶりを表すエピソードにはこんなものも。
「初めてのコンクールは12歳のときだったんですが、緊張は全くしていなくて、本選の前に読書感想文の本を読みながら眠ってしまったんです。2次予選まで伴奏をしてくださった先生が付き添いで控室に一緒にいてくださったんですが、すごくびっくりされて(笑)。『春花ちゃん、今まで眠っていたのよ』と。あまり動じないタイプなのか、どこでも眠れるんです。ロン=ティボー国際コンクールのときは、ホームステイ先に着く前に電車の中で寝てしまい、ホームステイ先の住所やコンクールの事前審査に通ったという証明書など、すべて入った鞄を電車の中に置き忘れてきてしまったんです。友達の家に泊めてもらい、なんとか書類を取り寄せてコンクールに参加したという…大変な思いをしました」
©T. Tairadate
2013年に参加したシャネル・ピグマリオン・デイズの第1回目のコンサートは、長尾さんにとって忘れられないものになったといいます。
「大変な大雪の日で、ほぼ電車が止まっていて私自身開演の15分前にネクサス・ホールに到着したんです。すぐに演奏の支度は出来たのですが、5人来れたらすごい、という状況にもかかわらず、30人ほどのお客さまがご来場くださったのをステージ上から見たときは、ここまで大変な思いをして来てくださったことにすごく感動して、泣いてしまいました」
長尾さんの全6回のリサイタルのプログラミングはとてもユニークなものでした。前半はバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ。後半はデュオ、トリオ、カルテット、クインテット、と少しずつ共演者を増やし、6回目にはメンデルスゾーンの『八重奏曲』を演奏するという豪華なフィナーレを飾ったのです。
ピグマリオン・デイズでの演奏風景
一番左が長尾さん(2013年8月) ©CHANEL NEXUS HALL
「曲探しは大変でした。時間内に収まる曲という条件もありましたし。カルテットはずっと組んでいたメンバーと演奏したのですが、今まで取り組んだことのない作品を演奏しようということでボロディンの弦楽四重奏曲第2番を選びました。当時のメンバーは皆、現在日本のオーケストラで活躍しています。全6回のリサイタルで『弦楽器の可能性を追求する』というテーマのもと、プログラムを決めていきました」
©T. Tairadate
音響にもこだわりがある長尾さんは、ステージに板を一枚増やして音の響きを調整するなど、毎回ぎりぎりまでベストな演奏ができるよう細かなところまで追求されていました。この積極性は当時学生でありながら、すでにプロフェッショナルであった彼女の成熟を思わせます。
「ネクサス・ホールで思い出すのは、なぜか照明の形がいつもマリア像に見えて、バッハの無伴奏を弾くたびに敬虔な気持ちになったことです。6回続けて同じ会場で演奏できるというのも稀有な経験でしたし、同じ楽器で同じ人間で、どう音を作っていったらよくなるのかという可能性を追求できました。すごく貴重な機会でした」
2019年は6回日本に帰国し、コンサートを行う長尾さん。ハンガリー国立歌劇場オーケストラでの充実した日々の合間に、現地でもコンチェルトや室内楽を頻繁に行っています。
オペラ上演中のハンガリー国立歌劇場オーケストラ・ピット内での演奏風景
最前列中央が長尾さん
「歌劇場のコンサートマスターは毎年契約更新で、通常4年更新出来たら終身雇用ということになっているのですが、私はすでに今年終身雇用をいただいたので、やめたければいつでもやめられるけど、やめたくなければずっといていいという状態です。オペラが1日に2公演ある日はずっと劇場に入りびたりで大変ですし、プッチーニの『三部作』では、『修道女アンジェリカ』の上演中に、次に演奏する『ジャンニ・スキッキ』で使う風船が飛んできたりしてアクシデントも頻繁に起こりますが(笑)、客席には若者もたくさんいて、皆が劇場に集まってくるのでやりがいがあります。チケット代が日本よりも安いうえに、学生は半額なので、その歌手のシリーズ全公演に来るという若い人も多いんですよ。好きな作曲家はバルトークですが、プッチーニは格別。『トスカ』も好きですが、『ラ・ボエーム』は、私の人生そのままですね。お金の心配もあるけど好きな芸術を海外でやっている。このオペラで描かれている青春そのものだなと思います(笑)」
©T. Tairadate
取材・文:小田島 久恵(音楽ライター)